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국제고려학회 일본지부 소개

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日本支部通信

第9号 (1998.7)

巻頭言

フランス留学とコリア学
金 哲 雄

 

 私は昨年の4月から約半年間、パリ・社会科学研究院の韓国経済社会研究所の招聘により、主としてフランス・プロテスタンティスム歴史協会図書館、国立古文書館、国立図書館において「ユグノーの経済史的研究」に関する研究調査・資料収集を行った。所長の鄭成培教授には招聘状の作成など留学に際して骨を折っていただいたが、滞在中も貴重なアドバイスを受けるなど大変お世話になった。私は現在、この貴重な海外研修の成果を生かし、新たな研究成果を挙げるために悪戦苦闘のまっただ中にいる。私にとってこの研修はまた、フランスにおけるコリアについていろいろなことを知り、感じるいい機会でもあった。この点について思いつくまま、ごく簡単に述べてみたい。
『在フランス韓人事業電話番号帳』(韓人新聞、1997年)によれば、「韓人会」(1970年結成)所属の僑民は1100名、留学生は8000名、駐在員は250名で、計9350名である。この『電話番号帳』を見ると、在フランス・コリアンが多くの分野で活躍していることが伺える。そのうち大学教授は9名、科学者は11名、医者は3名である。医者3名のうち一人はモンペリエ大学出身の歯科医で、彼から歯の治療を受けることがあったが、とても親切に対応してくれたのでありがたかった。また、国立図書館に勤務する唯一のコリアンだと思われる女性からも、貴重な資料を収集する上で便宜を図ってもらった。留学生についていえば、韓国からの留学生は日本からのそれに比べての3分の1程度だといわれている。一方、共和国出身のユネスコ職員によると、共和国からの留学生は皆無のようである。それが主として経済的理由によるものだ、と聞いてとても寂しく感じた。
パリには、コリアン・レストランが29店舗ある。その中の一軒はオペラ座近くの旧国立図書館の前にあり、そこを10回程度利用した。そこの経営者にも、前出の歯科医の紹介など日常生活のアドバイスを受けたりしてとてもお世話になった。もう一軒は、パリきっての学生街カルチエ・ラタンにあるパンテオン(万神殿、今は地下の埋葬所にミラボー、ルソー、ユゴー、ゾラの墓がある。そして、近くにはソルボンヌ大学、リュクサンブール庭園がある)の裏にあり、そこには下宿から近かったので数回足を運ぶことになった。いずれの店もコリアン、日本人の滞在者や旅行者の客が多く、日本の不況と、それに加えて韓国の経済悪化によって経営が苦しくなっていると聞いた。現在の韓国の経済危機が影響を及ぼしている典型的な例の一つが、海外旅行者数の激減ではないだろうか。昨年パリ滞在中には、韓国からの多くの旅行者を見かけ、韓国の留学生とともにとても目立った存在であった。そのうちの何人かとも会話を交わしたりもした。ところが、今年1月に再度パリへ行く機会をもったが、韓国からの旅行者をほとんど見ることはなかった。韓国をはじめアジアの経済危機とその影響を考えると、マルクスの「社会は経済が土台になっている」という言葉を痛感している次第である。
ところで、西洋を主として研究対象にしている私にとっては、コリア学をどのように捉えたらいいのだろうか。コリア学の前提、発展に関しては、すでに「日本支部通信」第4、6、8号において学際的、国際的視点、その未来学的な性格、それに対するパトスなどが諸先生から主張されている。これらの主張はいずれも示唆に富むものであるが、本号ではコリアの地域研究とは違った視点からコリア学を考えてみたい。すなわち、自己の専門領域からのコリアへのアプローチである。コリア学がコリアに関する研究である以上は、このアプローチも当然コリア学に含まれるものと考えられる。
私は「ユグノーの経済史的研究」から多くのことを学んできた。フランスのプロテスタントであるユグノーは、少数派でありながらも、資本主義的発展の重要な担い手であった。また、ナント勅令廃止に伴うユグノーの亡命はフランス経済に大きな打撃を与えるとともに、ユグノーは亡命先で経済的に大きな役割を演じた。これらの研究から学んだ、少なくとも二つの重要な点について指摘しておきたい。その一つは宗教と経済との相互関係、という問題である。この問題は、ヴェーバーのあの有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」と関連する古典的な課題でもある。この問題はまた、経済の担い手とも関わっている。現在のアジアの経済危機の中、韓国と台湾の間で明暗が分かれるようになっている要因として、財閥主体の韓国と、中小企業が経済を支える台湾の産業構造の違いが指摘されている。この指摘からして経済の担い手という問題の重要性が浮かび上がってくる。これらの点から、拙稿「朝鮮プロテスタントと平壌メリヤス工業」、「韓国経済と儒教」などが、私にとってコリアへのアプローチになっている。もう一つは、少数・被圧迫者の経済活動についてである。この点に関しては、拙稿「在日朝鮮人の経済活動」、「在日朝鮮人の経済問題」などで展開している。
確かに、コリア学はどこまでもコリアの地域研究が主体にならねばならないだろう。しかしながら、各専門領域からコリアへアプローチすることは、コリア学を発展させる上で促進的な役割を果たすだろうと確信している。その意味でも、社会科学、自然科学を問わず専門領域からその研究成果がますます多く出ることを期待したい。このことは、国際高麗学会をさらに発展させる一つの道でもあると思う。

 (国際高麗学会日本支部事務局長 大阪経済法科大学助教授)

 


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【特別講演会報告要旨】
1997年12月13日(土)15:00~17:00 OICセンター 会議室

Korea学はどうあるべきか
高 泰 保

 

はじめに
Korea学に関する議論は、国際高麗学会でしばしば行われており、この日本支部通信にも、「戦後50年とコリア学への期待」という題目で、文京洙立命館大学教授(日本支部副代表、法律社会部委員長)の一文が寄せられています(日本支部通信第4号1995.6)。筆者にも「Korea学を考える」という題目で所感を述べる機会が与えられました(同第6号、1996.6)。また、滝沢秀樹大阪商業大学教授(国際高麗学会日本支部代表)は、巻頭言「コリアへの関心とコリア学の発展」を載せています(同第8号、1997.12)。
筆者は、その後もKorea学に関する考察を深め、ここにその結果を報告することになりました。なお、本報をまとめるにあたっては、できる限り前報の内容と重複しないようにと心がけました。

1.Korea学は、基本的には朝鮮半島を対象とするエリア・スタディ(地域研究)であるが、同時に朝鮮(韓)民族を対象とする学問分野でもあります。
朝鮮民族は、朝鮮半島に6,700万人の人口を擁していますが、海外にもその7.5%にあたる約500万人の同胞が在住しています。エリア・スタディという視点のみからKorea学をとらまえると、これから海外に居住する朝鮮民族の存在が欠落してしまう恐れがあります。
私たちの立場からすれば、これは容認し難いことだといわなければなりません。Korea学に民族学的な性格を付与することによって、海外の同胞もKorea学の対象となり、同時にその発展を担う存在となりうるのです。
一般に、エリア・スタディの発展には、異質な文化圏に属する研究者が大きな役割を果たしています。Korea学においては、海外で活躍する朝鮮族の学者、研究者がその発展に重要な役割を果たすことになるでしょう。とくに、朝鮮半島が政治的に分断されている条件では、彼らの存在なくしてKorea学とその発展について語ることができないといっても決して過言ではありません。

2.Korea学における研究対象は何でしょうか?
Korea学においては、朝鮮半島および朝鮮民族の文化を主な研究対象とすべきだと考えています。朝鮮の過去と現在の文化だけでなく、将来あるべき文化についても関心を寄せ、広く研究しなければならないでしょう。
※民族とは一定の地域に住み、同じ言葉を話し、長い歴史の間に共通の祖先から出た人間としての「われわれ」意識を共有する人々の集まりをいいます。
民族は、それぞれ特有の文化を創造します。現在、世界には三千数百の民族があるといわれていますが、国家と呼ばれるものは、200足らずです。したがって国家といえば、多民族国家が一般的なのです。
例えば、カナダは34、中国は56の民族から構成されており、旧ソ連では、公認された民族が130以上存在します。
なお、身体的ないし形質上の違いによって分別される人種は、一般に黒色人種(ニグロイド)、黄色人種(モンゴロイド)、白色人種(コーカソイド)に大別されていますが、専門家は世界の人種を29~31種に分けています。
朝鮮民族の文化の移動も重要な研究対象の一つです。この分野では、エスニシティに関する研究が重要課題の一つになるでしょう。
※国民国家の枠組みの中で、他の集団とは区別された独自の文化的アイデンティティと出自を共有する民族集団が表出する性格の総体をエスニシティ(ethnicity)と言います。

3.では、Korea学の研究対象となる文化とは何でしょうか?
文化とは、社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体のことです。言語、習俗、宗教、種々の制度などはその具体例です。
また、人間が学習によって社会から習得した生活様式の総称のことも文化と言います。これには、衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳などの物心両面にわたる生活形成の様式と内容などが含まれます。
人々を導く理念や信仰、人々の行動を規制する慣習や法規範、人々をまとめていく社会組織、芸術や生業や衣食住その他にかかわる設計や製作、そのための技術など、後天的に獲得(学習)され、社会的に共有され、継承される生活様式の体系もまた文化なのです。一般に、文化は言語の文化、技術の文化、価値の文化、社会の文化に区分されています。
これら4つの文化について簡単に説明すれば、以下のようになります。
①言語の文化:音声または文字を手段として人の思想、感情、意志を表現伝達し、またそれらを理解する行為のことです。言語の文化が価値の文化、社会の文化、技術の文化の蓄積と発達に与えた影響は絶大なものであるといえます。
②技術の文化:人間が生活していくために用いた、衣食住などに関するさまざまな知識の体系を技術の文化とよんでいます。人間の経済活動に関連します。
③価値の文化:〝聖の体系〟と〝美の体系〟からなります。前者は宗教、呪術、神話などで、後者は絵画、彫刻、工芸、音楽、舞踊、文学などを指します。
④社会の文化:血縁、地縁、約縁に関わる文化です。家族制度、結婚の形態、社会階級(階層)などの社会制度、人の社会生活全般のことです。国民国家における民族集団のエスニシティもこのカテゴリーに含まれます。
ここでひとつ注目していただきたいのは、文化全体の中で技術の文化が占める比重が大きいということです。余談になりますが、このことへの理解が不十分であったため、国際高麗学会設立当時、科学技術部会の設置を疑問視する声が少なからずありました。

4.Korea学は、総合的、学際的な研究分野であり、未来学的な指向性を持たなければなりません。
学問は、その進歩の過程で分化を遂げ、今日のような体系を作り上げました。このように細分化された学問体系を織物の縦糸に喩えるならば、Korea学を含むエリア・スタディは横糸に喩えることができます。横糸は縦糸と縦糸をつなぎ、布全体、言い換えれば学問全体を強固なものにします。
学問が発達すればするほど、それら相互の関係が失われていきます。このような現代の学問体系の欠陥を是正するために、総合的な学問、学際的な研究の必要性が叫ばれているのです。Korea学は、このような時代的な要請に応える学問、研究分野でなければならないと考えています。
しかし、国際高麗学会が設置している部会は、従来の学問体系に準じたもので、「縦糸」的であります。このような体系の中からは、「横糸」的な研究、すなわち総合的、学際的研究は生まれにくいのです。残念ながら、これが今日の国際高麗学会、Korea学の限界を示しているのではないかと思われます。
ただ、第5回朝鮮学学術討論会でのシンポジウム(1997.8、大阪)は、Korea学を総合的、学際的な学問として発展させる方向性を示唆しており、私たちに強い印象を与えました。
文化人類学や民族学は、これまで「未開社会」の文化を主な研究対象にしてきましたが、今日では「先進的」な社会の文化を研究の対象にするところとなり、文化の将来についての研究も重要視されています。
このことは、エリア・スタディにも当てはまるでしょう。このような時代の流れにあって、Korea学にも未来学的要素を十分に付加させなければならないと考えています。
例えば、言語、あるいは言語─技術の分野では、英語の世界語化に対するハングルの対応、またコンピュータ化・情報化へのハングルの対応などがKorea学の研究課題となるでしょう。
Korea学においては、国土と民族の統一の過程とその後に提起される南北の文化的統合についても多くの研究がなされなければならないと考えています。

5.次に、Korea学と他の学問・研究分野との関係をみることにしましょう。
古くはエジプト学や中国の「支那学」、そしてチベット学、モンゴル学、アフリカ学、ロシア学、日本学などが同じエリア・スタディの仲間ということになります。日本ではアイヌ学も存在するが、これはアイヌ民族とその文化が研究の対象になっており、エリア・スタディとは言い難いものです。
Korea学に最も近いエリア・スタディは、やはり日本学(Japanology)ということになるでしょう。地理的、あるいは歴史的な関係からだけでなく、文化の比較からもそのようにいえるのです。例えば、価値の文化ひとつをみても、「恨(ハン)の文化」と「恥の文化」とが対比されるといった具合です。
Korea学をエリア・スタディという視点から離れてながめてみると、それは朝鮮半島を対象にした文化人類学、朝鮮民族を対象にした民族学であるといえるでしょう。
なお、米国起源の学問、文化人類学(cultural anthropology)は、人類学の一部門で、人間の文化的領域を研究するが、イギリスでは文化人類学とはいわず、社会人類学という名称が一般的です。ところが、ドイツやフランスなどの大陸諸国では、文化に関する研究は、民族学(ethnology)の守備範囲になっています。

6.ロシア学における研究テーマは、私たちにとって非常に興味深いものです。
Korea学の研究の分野や研究課題を考える上で、エリア・スタディであるロシア学が取り上げているテーマは示唆に富んでいて大変参考になります。そこで、ロシア学で論じられている課題(藤本和貴夫編「ロシア学を学ぶ」、世界思想社、1996より)を以下列挙してみました。
・ロシアの大地と住民
自然、産業地理、環境問題
・多民族国家としてのロシア
旧ソ連の諸民族、ソ連時代の民族政策、
ソ連崩壊後の民族独立 ・自決運動
・ロシアの祝祭と儀礼
・ロシアの思想と精神風土
・文化の視点でみたロシア
ロシアはいつからロシアか、正教のロシア化、ロシア的性格、ロシア文化の可能性
・ソ連邦の崩壊と新政治体制の模索
ソ連崩壊への道、独立国家共同体(CIS)の創設、ロシアの国家体制
・市場経済化の背景とゆくえ
社会主義経済はいかにしてつくられたか、計画経済システム、その特徴と問題点、ペレストロイカはなぜ必要だったか、ペレストロイカはなぜ失敗したか
・メディア論からのグラスノスチ
・ソ連・ロシアの科学技術
科学技術大国の崩壊
・10月革命とは何だったのか
10月革命の構造、「幻想」の革命、10月革命をどうとらまえるか
・日本のロシア学・ロシアの日本学
日本におけるロシア学の黎明、ロシアにおける日本学の黎明、日本でのロシア学をめぐるイデオロギー対立、スターリン体制冷戦下のロシア日本学、ペレストロイカ以後のロシアの日本学
おわりに
読者諸氏は、拙稿を一読され、その内容の不十分さを察知されたに違いありません。なによりも筆者自身がそのことを感じとっており、今後ともKorea学のあるべき姿、その将来のついて考察していきたいと考えております。
国際高麗学会においても、Korea学に関する論議がこれまで以上に活発に行われることを期待しています。
このような過程で形成される学会内外のコンセンサスは、Korea学の発展にとって貴重なものに違いありません。そして、コンセンサスが得られた事項については、可能なところから実践していき、Korea学と国際高麗学会を変革していくことが望まれます。

(国際高麗学会科学技術部会委員長、OIC研究所所長/大阪経済法科大学客員教授)

 

 

1998年4月18日(土)15:00~17:00 OICセンター 会議室

祖国統一と在外朝鮮人の役割に関する一考察(その1)
呉 清 達 

 

 昨年7月、香港の中国返還を可能にした一国二制度は、小平の考案ではなく、1960年代に金日成主席が提案した南北連邦制を参考にし、取り入れられたものだと、中国共産党中央文献に示されている。
これまで、南北学者間交流を促進させるために、少なからず腐心してきた者として、南北間の対立とはいかなるものであり、その解決のために何をなすべきか、ということは常に立ち返るべき課題であると考えている。
祖国統一に向けて、在外朝鮮人の果たすべき役割についての考察を、以下のレジュメにそって報告した。

【1】祖国統一方案について
(1)金日成主席が提示した連邦制統一方案について
①1960~1972年
・8・15解放15周年慶祝大会での報告
(1960年8月14日)
・朝鮮労働党第4次大会での報告
(1961年9月11日)
・朝鮮労働党中央委員会第4期第8次全員会議での結論(1964年2月27日)
・朝鮮労働党代表者会議での報告
(1966年10月5日)
・朝鮮労働党第5次大会での報告
(1970年11月2日)
②1972~1980年
・南北共同声明(1972年7月4日)
・祖国統一5大方針に対して
(1973年6月25日)
・高麗連邦共和国創立案
③1980~1990年
・朝鮮労働党第6次大会での報告
(1980年10月10日)
・高麗民主連邦共和国創立方案
・10大施政方針
④1990年~
・UN同時加盟(1991年9月)
・南北合意書(1991年12月13日)
・「祖国統一のための全民族大団結10大綱領」(1993年4月6日)
(2)連邦制統一方案と3段階統一論
①3段階統一論
◎金大中大統領
・一連合二独立政府(共和国連合制)
・一連邦二地域自治政府
・一国家一政府
◎李世基(1990年8月)
・国家連合(一民族、二国家、二体制)象徴段階
・体制連合(一民族、一国家、二体制)実質段階
・統一国家(一民族、一国家、一体制)完結段階
②国家連合と連合国家
・Federation, Confederation, United Nations(UN), Union
・国号、機構、機能
③一府二制、二府二制
・経済管轄権/外交権/軍事統帥権
(3)平和/対話、交流、協力
・阻害要因とその克服

【2】在外朝鮮人の現状と特徴(略)

【3】祖国統一のための在外朝鮮人の役割(略)

【1】(1)では、金日成主席が提示した連邦制統一方案を年代を追いながら報告した。
1960年、解放15周年慶祝大会における金日成主席の連邦制提案は、「わが国の平和的統一は、必ず自主的に、いかなる外国の干渉もなしに、民主主義的基礎の上での自由な南北総選挙を実施する方法で解決されなければならない」ことを一貫した主張とし、南が「まだ自由な南北総選挙を受け入れがたいとするならば、まず民族的に緊急を要する問題から解決するために、過渡的な対策でもたてなければならない。われわれはこのような対策として、南北朝鮮の連邦制の実施を提案する」というものであった。1960年代、連邦制の実施は、統一に向けた過渡的対策として位置づけられたのである。
1970年代に入り、南北共同声明の翌年1973年、祖国統一5大方針の中で高麗連邦共和国創立案が提唱された。高麗連邦共和国は、「統一を早める」上で重要な意味を持つものであり、「完全な統一を促す道で決定的な局面」を築くための「偉大な転換」として提案された。いわば、統一を早め、促すという意義を持つものであって、高麗連邦共和国は、完全な統一ではないことが示されていたといえる。
1980年の朝鮮労働党第6回大会では、「統一する最も現実的かつ合理的な方途は、北と南に現存する思想と体制をそのままにして、双方が連合し、一つの連邦国家を形成することであると認める」とする高麗民主連邦共和国創立方案と、これに基づく10大施政方針が提案された。
高麗民主連邦共和国は、南北が「同等に参加する民族統一政府を組織し、その下で北と南が同等の権限と義務を担い、それぞれ地域自治制を実施する」というものであり、いわばそれ自体が統一国家であった。南北関係が厳しい状況の中で、極めて柔軟な提案がなされたといえる。
1990年代に入り、朝鮮半島を巡る情勢は大きく変化する。国連同時加盟が焦点化する91年、金日成主席は新年辞において、高麗民主連邦共和国創立方案に対する民族的合意を得るため、暫定的には連邦共和国の地域政府により多くの権限を付与し、長期的には中央政府の機能をより高める方向で、連邦制統一を漸次完成させることについて、協議する用意があることを明らかにする。
このように高麗民主連邦共和国は、1960年代の連邦制提案以降変化を重ね、1つの思想と制度を持った統一国家の樹立を前提とした「制度的統一」から、南北の現実的条件を考慮し1つの民族として統一を実現する「民族的統一」へとその内容は質的な発展をとげたことが指摘しうる。

 (2)①では、金大中大統領の3段階統一論について概観した。
金大中大統領は、昨年12月の当選記者会見で、1991年末に採択された南北合意書の推進・具体化と南北首脳会談の開催を提案した。金大中大統領は、1971年の大統領選挙に出馬した際、初めて3段階統一論を提案し、後に3原則3段階統一方案という内容に整理している。3原則とは、平和共存、平和交流、平和統一であり、3段階とは、共和国連合制による国家連合段階、連邦制統一段階、完全統一段階である。この第1段階における共和国連合制は、1971年当時、「連邦制」という表現を用いていたが、北の共和国と南の韓国の二つの共和国がなす一つの連合をより正確に表現するために1991年に「連合制」に変更した。第2段階へは、第1段階の共和国連合制を通じて同質性を回復した後に可能であるとし、共和国の高麗連邦制もこの段階で検討できるとしている。
②の国家連合と連合国家、連邦制の差違はいかなるものなのか。比喩的な表現を用いれば、その概念上の境界は超えがたい垣根ではなく、相互に浸透が可能な連続した障壁のない道のようなものだと考える。重要なテーマは、昨今の南北間の提案からも、中央政府と地域政府との関係性、すなわちそれぞれの権限・機構・機能をどのようにするのかという問題である。機械的に区分するのではなく、その時の状況によって可変的に取り扱うことも可能ではないだろうか。
(3)では、南北間において、対話・交流・協力を通じて、和解と平和を構築する過程には、南北双方にそれぞれの事情を有している。しかし、和解・協力・平和定着という当面の三原則と南北基本合意書に依拠する韓国と、現実的な祖国統一大綱である三大憲章を柱とする共和国との交流は、紆余曲折を経ながらも、ゆるやかにではあるが、幅広い大河のごとく前進するものと考えられる。

 【2】と【3】については、時間の関係で十分な報告ができなかったので、次の機会に譲りたい。在外朝鮮人が本国同胞との関係を強化しつつ、政治、経済、学術文化、軍縮平和の各分野において一層役割を発揮することが求められているといえる。

(国際高麗学会常任顧問・大阪経済法科大学教授)

 

 

〔西日本地域研究会報告要旨〕
第29回 1997年11月22日(土) 15:00~17:00 OICセンタービル 会議室

在日コリアン一世の日本語
──大阪市生野区に居住する一世の日本語運用に見られる構造的特徴──
金 美 善

 

1.はじめに
大阪市生野区は在日コリアンの最大密集地域として韓国の文化や日本の文化が共存する異文化共存地域として知られている。異なる文化を背負った異民族が出会うと、そこにはさまざまな現象が生起するが、社会言語学を研究する立場からいえば、大阪市生野区は潜在的二言語併用地域であり、韓日両言語の接触地域でもある。こうした地域的特殊性には歴史的経緯によって来日を余儀なくされた一世の言語状況が背景として存在する。
生野区に居住する一世の使う日本語は標準とされる日本語とはかなり異なった構造を有しており、独自の体系をなしている。一見、誤用と見なされがちであるが、これは来日以前にすでに生得した母語である韓国語の構造が持つ言語的および社会・文化的基準が、形式として習得した日本語の使用に現れたものであり、現にコミュニケーションの手段として地域社会で通用する日本語の一変種でもある。
具体的には以下のようなものがある。

2.音韻
一世の日本語を日本語母語話者から評価すると発音そのものにかなり特徴が目立つようである。「朝鮮ナマリ」と称されてきた一世特有の発音として、朝鮮ナマリとは韓国語の音域体系からの影響(干渉)による日本語の音代用を指す。破裂・破擦音における有声音と無声音の環境による交替(清音・濁音の問題)モーラ音素の認知の問題(長音・短音の問題)などが代表的なものである。これらは一世だけに限られたものではなく、一般韓国語母語話者の日本語の発話にみられる共通的特徴であるといえる。しかし、資料からは以下のような一世特有の特徴が観察される。

①語頭の/r/音
・冷麺 /re:meN/ →[nemen]ネメン
・旅行 /rjokoR/ →[joko]ヨコ
②サ行拗音の直音化
・社長 /sjacjoR/ →サチョ
・終戦 /sjuRseN/ →スーセン
③語頭破裂有声音の鼻音化
・電話 /deNwa/ →ネンワ
・べっぴん /beQpiN/ →[meppin]メッピン
④ /cu/ 音
・辛い /curai/ →スライ
・靴 /kucu/ →クス
⑤ /zu/ 音
・恥ずかしい /hazukasiR/ →ハスカシ

 これらの用例は、資料を提供してくれた一世のほとんどが日本語の文字を習得しておらず、専ら聴覚的情報によって音価を習得した過程で発生したものであると考えられる。
日本語母語話者との接触よりは先着者が習得のモデルになり、干渉の体系が地域的に拡散した可能性もうかがえる。

3.語法
一世の日本語運用に見られる統語的特徴は音韻の項目と同様、母語の統語構造に日本語の語彙を入れ替え、独自の統語構造で日本語を運用していることである。こうした運用は習得の負担と関わる自然発生的な習得ストラテジーとして複雑な統語構造が簡略化する結果として現れる。
例えば、考える→「考えする」、焼き餅をやく→「焼き餅する」、冗談を言う→「冗談する」など、母語の「─??」と日本語の「─する」を同一化し拡大して使用する例である。母語の(생각하다, 질투하다, 농담하다)がこれらの統語構造の生成を可能にするのである。また、母語より分化している動詞の形態素「やる・くれる」を母語の「주다」の意味に沿って解釈し、意味的に統合して使用していることなどがあげられる。「やる・くれる」を異形態として使用することになる。
いずれの用例も母語の体系が日本語の形式を簡略化する要因となったものである。
一世の日本語にはこうした自然発生的な形式の簡略化が数多く観察できるが、簡略化のみならず以下のように母語の形式を意味伝達を強化する機能として直接取り入れる場合もある。


・たまに遊びにおいでな게。

・何でそれ食うね게。それ食っても意味ないね게。


一世の日本語をベースとした発話のなかには飲食用語や親族呼称および儀式用語など文化的要素が色濃く反映された韓国語の語彙を導入することが著しい特徴として観察されるが、上の用例は語彙とは違った、発話を締めくくる要素として母方言の「게」を直接日本語の文末に取り入れたものである。「게」は済州島方言の文末詞とされ、日本語の文末に用いられる場合、意味伝達を強化する心的態度を表す機能としてはたらく。日本語の形式だけでは表現できない細かい感情表現の欲求を母語の形式を借りて解消する一世独自の言語運用であるといえる。

4.語彙
習得語彙が日常中心語彙であるため、抽象概念を表す漢語や日常的に使う機会が少ない語彙が単純化する場合が多い。心の中では複雑な気持ちを表そうとしながらも結局は最も単純で手っ取り早い語を意味的に拡大して使用しているのである。また、一世の定着の過程でつくられたと思われる語彙、例えば、シタバリ、マトメ、など生野周辺の産業構造と一世の携わっていた仕事に関連する語彙が本来の意味から特定の意味に限定され使用されていることなどが観察される。
いずれの内容も一世の来日と定着の過程、密集をなした地域内での社会的環境などさまざまな要因が絡み合って発生した独自の変種として、なかには母語による発想と日本語の形式がバイリンガルである一世の体系としてすでに定着してるものも数多く観察される。段々と消えていく、日本語の中の韓国的発想、韓国語の要素である。

(大阪大学大学院)

 

第30回 1998年1月29日(木) 18:00~20:00 OICセンタービル 会議室

韓国の金融危機と「IMF時代」の経済政策
高 龍 秀 

 

 第15代大統領選挙戦が本格化した1997年後半の韓国は、IMFから史上最大規模の緊急融資を受けざるをえないという未曾有の通貨・金融危機に直面した。96年に29番目の加盟国としてOECDに加盟し、金泳三大統領の掲げる「先進国化」を達成したかに見えた韓国経済は、一転して「IMFによる信託統治」と呼ばれる経済難局に陥っている。
この金融危機は、大きく分けて3つの段階で深刻化してきた。第1段階は、1996年後半から財閥の連鎖破綻が続き、国内金融機関が莫大な不良債権を抱えるようになったことである。97年初に、財閥14位の韓宝グループが破綻し、7月に財閥8位の起亜グループ、12月には財閥12位の韓撃グループも破綻するなど通貨・金融危機と連鎖して大型倒産が相次いだ。重工業と流通部門に多いこれら財閥の破綻は、韓国財閥が安易に借入資金に依存し野心的な多角化投資を続けてきたことに原因がある。特に95年に1ドル=80円に至った円高を好機と見なし、あまりに野心的な設備投資を行ったことが裏目にでたといえよう。自己資本3000億ウォンの韓宝鉄鋼は新製鉄所建設に5兆ウォンもの融資を得たが、円安による経済環境悪化により破綻してしまった。韓宝事態は、政治家による融資あっせんとその見返りとしてのワイロ問題に発展し、現職閣僚などが逮捕されるに至ったが、自己資本比率が極めて低い韓国財閥が政経癒着による銀行融資に依存し、金融機関も厳密な審査能力を持たずに、政治的介入により融資先を決定するいう古い体質が一気に表面化したといえよう。この財閥破綻により、韓国金融機関は巨額の不良債権を抱えるに至った。韓国政府は全不良債権が31兆6000億ウォンであり、国家予算の45%、韓国GDPの8%に相当すると発表した。しかし韓国は日本同様に不良債権算定の基準が緩く、米国の基準に従い3ヵ月以上金利支払いが遅延した債権を含めれば48兆ウォンにのぼり、GDP・国内総貸出の12%に至ると米系銀行は推計している。この国内金融機関の不安定化により、海外投資家は韓国向けの外貨融資が不良化することを警戒し、外貨不足を加速化させている。
危機の第2段階は、1990年代に対外債務が急増した韓国で先に見た経済状況悪化が起こり、債務返済圧力が強まったことである。1990年代に、企業・金融機関による短期外貨借入が急増した。これは米国などの圧力により韓国が資本取引の自由化を進めたため韓国金融機関の外貨借入が増大したことも影響している。さらに、経常収支赤字が95年夏以降の円安による輸出不振などにより、95年89億ドルから96年237億ドルに急増し、96年の経常赤字はGDPの5%という危険ラインに達した。経常赤字が拡大する中で、韓国の企業と金融機関は外貨支払い義務が増大し、それを短期外貨借入で調達したため、短期外債が一層急増していった。97年10月頃には、同年3月末で総外債が1100億ドル、この中で650億ドルが1年以内に返済すべき短期外債と発表されていたが、これに含まれていない韓国企業・金融機関の海外法人での短期外貨借入が同じ程度あるとの報道がなされ、外債規模に関する情報開示が不徹底であることが海外投資家の不信感を募らせた。
こうして事態は第3段階の深刻な通貨危機へと突入する。財閥破綻、経常赤字増大、短期外債の急増に不信感を高めた海外投資家が、韓国株式の売却や韓国への債務回収に走った。外債返却に追われた韓国の金融機関は為替市場でウォン売り・ドル買いに走り、海外投資家も株式売却額をドルに替えたため、ソウル為替市場はウォン売り一色となった。ウォンの対ドルレートは11月中旬に1ドル=1000ウォンを突破し、12月23日には2000ウォン台へと急速に下落した。
11月下旬にIMFへの金融融資の申請を行った後、大統領選挙に当選した金大中氏は、IMFの厳しい改革要求を受けながら、韓国の経済構造を大胆に改革することが問われている。負債比率が高く非効率部門を抱えた過度な多角化経営という韓国財閥の改革や、厳格な審査能力や資産運用能力で劣る金融機関の改革が今後の課題となる。物価上昇と失業者急増の中で、整理解雇制により労働者への負担を一方的に加重するだけでなく、失業対策と福祉政策を整備しながら、財閥・金融機関の構造改革を果敢に進めることが新政権の課題となるであろう。

(甲南大学助教授)

 

第31回 1998年3月26日(木) 18:00~20:00 OICセンタービル 会議室

私と太平洋戦争、そして解放
──治安維持法犠牲者に国家賠償を!──
徐 元 洙 

 

 私が、母の手に引かれ、父を尋ねて日本に来たのは、8歳の時で、京都府下の雪深い丹波の綾部というところでした。当時、母は27歳でした。ですから私は、母の19歳の時に生まれました。父は18歳の時です。当時はそれが普通の結婚適齢期であったそうです。
父は、私が生まれて初誕生が過ぎて間もなく日本の労働市場に身を売り、単身で飯場生活をしながら、鉄道工事のバラス運搬のトロッコ押しをしていました。
父は、5人兄弟の長男で、私はその一人息子です。儒教精神の厳しい時代でしたから、私は、いわば徐家の跡継ぎの宗孫であったわけです。
家系をつがなければならない一人息子が、幼くして故郷を離れるということは大変なことであったらしく、親戚からは、祖先への裏切り者とも思われたらしいです。
綾部に着いたのは、2月の寒い寒い真夜中でした。
父は、元々、痩身の小柄な人です。故郷では、農業とか、重労働はした経験はなく、学問の好きな人だったと聞いております。痩身にトロッコ押しの重労働、文字通り血の出るような飯場生活で、骨に皮をかぶせたような身なりの悪い格好でした。その人が、私の父だと確認するまで少し時間がかかりました。
そのみすぼらしい姿は、今でも瞼にやきついております。その時、突然異変がおこりました。1年半ぶりの再会で、母はその人、すなわち、母から見れば夫です。私から見れば父です。その人に、抱きついて泣きじゃくるのです。はたに、人のいるのもはばからずに、母からすれば、積年の思いが一度に噴き出て、胸のさける感動であったのでしょう。それでも私は、その人を父とすぐには呼べませんでした。子ども心とはいえ、「僕の父はもっと立派な人や」と、だだをこねて母をずいぶん困らせたそうです。今から考えると、大変不孝者だったわけですね。
その父も、母も、40年前にあの世の人となっております。
その時代の背景は、皆さんよくご存知の、1910年、いわゆる日韓併合で、全朝鮮民族が、国を奪われ暗黒のただよう植民地時代に突入して、「鰯が魚か、朝鮮人が人間か」と、さげすまれた悲運の時代です。長谷川好道の武断政治が猛威をふるっていた時代です。
警察も普通警察から憲兵警察へと移りました。斉藤実総督は、アメとムチの文化政治をかかげましたが、本体は一つも変わりません。
私が総督府にいた時の総督は、敗戦の一つ前の内閣首相になった小磯国昭です。その前の総督は、悪名高い南次郎で、創氏改名と、朝鮮青年に徴兵制を布いた張本人です。私はその徴兵制の第1号適用で、第一乙種合格です。
そして私は、解放2年8ヵ月前に、旧制中学校を卒業するとき、戦時下で、日本の敗戦が目に見えて切迫していた時代です。文字通り猫の手も借りたく、少々の身障者も軍需工場へかりだされた緊迫した情況です。それなのに、100名の卒業者の中に、ただ一人、私だけが就職できず、社会に放り出されました。「朝鮮人」ということだけで差別を受けたからです。当時の校長が家に来て、父に謝るとき、はっきりとそういって弁明しました。
紆余曲折を経て、「捨てる神あれば拾う神あり」とか、京城(今のソウル)の朝鮮総督府に下級事務員として、官房文書課に就職しました。
ところが、半年もせずして、私たちの朝鮮人が主人でなければいけない朝鮮で、日本総督政治の植民地政策で、目に余る差別、侮蔑、抑圧が支配していることに身をもって体験しました。官庁は無論のこと、一流会社、銀行、鉄道、学校、病院、住宅などに至るまで、全部日本人が独占支配していました。同級生で、朝鮮銀行に就職した大谷堅二君の給料は、私の1.6倍でした。彼が単身赴任なら、私も単身赴任です。勉強も、軍事教練も、私が上でしたのに。
徹底した皇民化教育の下、「内鮮一体」、「同祖同根」は、一体何だったのか。所詮、朝鮮同胞に、天皇制を強要した以外、何ものでもありませんでした。「国破れて山河あり」の思いでした。
いろいろ、自分なりに悩みました。そして「これではダメになってしまう」と、それまでの天皇に対する忠誠心から一転して、反日思想をいだき、日本にいる中学生──朝鮮同胞の友人、当時、彼は関学の高商部に在学中でした──に、朝鮮の現状を手紙に訴え、朝鮮の独立を目指して、同志の獲得に力をそそごうと、互いの励ましの手紙が、何度となく玄界灘を往復し、友人は日本で、私は京城で秘かに行動していましたが、2人とも日本の特高に捕まり、いわゆる治安維持法で逮捕投獄されたのです(1976年2月昭和特高弾圧史・極秘第8巻、p.203,278)。
治安維持法は、日本の数ある悪法の中でも極めつきの悪法の最たるものです。私にかぶせられた罪名は天皇制に反対する国賊だということでした。
戦時下の約8ヵ月間、独房に留置され、親兄弟との面会も一度も許されず、国選弁護人も形だけの公判に立ち会っただけです。もちろん、差し入れもなく、そのうえ、労働作業もさせず、飯(めし)も最低の5等食でした。命をつなぎ止めるぎりぎりの量で、5、6歳の子どもに食わすくらいの雑穀と麦飯です。おかずは塩か味噌に、たくわんを2、3切れのせたものだけでした。
普通なら3口か4口で食べ終わるのですが、配食だけが唯一の生きる頼みでしたので、一口、口に入れると何十回も噛み、時間を少しでも長引かせます。しまいには、口の中がドロドロの液体になるまで噛み続けて、時間を稼ぎました。
それなのに、日本の官憲は私に1冊の本だけを差し入れてくれました。今、ここにもっております。『皇軍建設史』という本です。昭和19年11月28日と、舎房1-32と記され刑務所の検印が押されております。取り調べだけでは物足りないのか、本を強制的に読まされ思想改良のチェックをするのです。
これだけではありません。
日本帝国主義の鬼畜性を身をもって体験しました。日本の敗戦の6ヵ月位前から、連日連夜米軍のB29の爆撃がつづきました。大阪・神戸も焼け野原の焦土と化しました。3年前の阪神大震災どころではありません。
そして、神戸刑務所も何度も空襲を受けました。それなのに、官憲どもは、殺人、強盗強姦犯は、空襲警報が発令されると、塀の中の裏庭に腰なわでつないで避難させるのですが、「国賊はその必要なし」ということで私だけがそのまま鉄窓に閉じこめられていました。
今、思うだけでも悔しさと、驚きで身震いがします。
ひどいときはこんなことがありました。房舎が爆撃を受け、建物が破壊され、中も外も停電し、周囲が全部真っ暗になり、壁やガラスの割れる音で、この世も終わりかと覚悟を決め、思わず出た言葉が、  でした。私は跡つぎの一人息子です。私が刑務所で爆死すれば文字通り犬死にです。徐家は絶えることになるのです。
しかし、運あって、今はここに生きております。
50有余年の歳月が流れ、私も70歳を数年過ぎました。在日65年の人生の歩みが、走馬燈のごとく過去を振り返ります。
多感な青春時代を刑務所暮らし。8ヵ月間という短い月日ではありましたが、私にとっては長い長い道程でした。そして、私にとってプラスであったか、マイナスであったのか?
今、私は確信を持って、プラスであったと思います。北であれ、南であれ、わが祖国、故郷であります。誰かが言いました。「誰か故郷を想わざる」と。齢がそういわしめるのかも知れません。
青春のまっただ中の鉄窓生活、私にとって青春とは、一体なんだったのか、決して、無にしてはいけない青春です。
その時に受けた身体的、精神的痛みは、54年が過ぎた今でも、癒えません。これだけはいくら時が流れても風化しません。いや、風化させてはいけません。
ですから、私は日本政府に強く訴えるのです。
私に対する、日本政府の違法行為による肉体的、精神的賠償はどうするのかと。また、それに伴う私に与えた屈辱に対する名誉回復はどうするのかと。
これらは、朝鮮人たる私の民族性の尊厳に関わることであり、ひいては後世に対する私の責務とも思います。
だから、私はこの問題を、強制連行、従軍慰安婦問題とまったく同列に、日本政府に過去の清算を促すものです。
日本政府は、法的責任を明確に認め、植民地支配と、侵略戦争の賠償を履行して、朝日国交正常化と、朝鮮の自主的平和統一の促進に寄与すべきだと思います。
このことの正当性はすでに、国連人権委員会で報告され、意見が採択されたことでも一目瞭然です。
この要求が達成されるその日まで、私は死ぬことができません。息長い闘いに向かって行くつもりです。

 (㈱ダイキョー建設取締役会長 兵庫金剛保険㈱顧問)

 

〔東日本人文社会科学研究会報告要旨〕
第15回 1998年3月28日(土) 15:00~18:00 大阪経済法科大学・東京セミナーハウス小会議室

韓国の通貨・経済危機と労使関係
金 元 重

 

 1997年11月に発生した韓国の通貨・金融危機とそれへの対応としてとられた韓国政府によるIMF(国際通貨基金)への救済金融の要請は、前年のOECD加入によって韓国経済が先進国並みになったと信じ込まされていた韓国国民にとって、まさに晴天の霹靂であった。以後、韓国経済はいわゆるIMF管理体制の下に置かれることになり、IMFの救済資金提供の条件として求められたさまざまな「改革課題」が、新たに誕生した金大中政権によって進められることになったが、この突然の経済危機がいかに韓国の人々にとってショックだったかはマスコミに現れた各種の「国恥」論から「IMF経済信託統治」論にいたるまでの世論に如実に反映されている。
IMFが求める韓国経済の改革課題は、一方では肥大化し放漫経営に陥った財閥の業態整理と経営合理化(主力事業の交換・相互支払いの保証制度の廃止等)であり、他方では為替安定のための高金利政策であるが、これは中小企業の資金繰りを圧迫することにより前者と相俟って必然的に失業の増大をもたらすことになった。IMFの要求する緊縮政策は、労働者に対して賃上げ等の労働条件改善の要求を自制するばかりでなく、整理解雇制の早期導入を受け入れることを求め、これを受けて金大中政権も経済再建のために外資導入を円滑にすすめるためには、国民が共に「苦痛を分担」しなければならず労働組合も整理解雇制に応じるように訴えた。こうして1960年代から経済高度成長を続けてきた韓国経済は、通貨・金融危機──IMFショックによりこれまでの経済成長の過程でその解決が先送りされてきた諸矛盾が一挙に露呈して苦難の経済再建に乗り出すことになった。
1997年7月のタイのバーツ下落に端を発した東南アジアの通貨金融危機は、かくしてよもやと思われた韓国に急速に波及することによって「東アジアの奇跡」と称せられた近年のアジア経済の持続的な高度成長に終焉をもたらした。とりわけ産業化が大きく進展した韓国経済における挫折の影響は他のアジア諸国の経済危機とは多少異なる様相を示している。民主労総の結成以後、組織的力量を強めてきた労働者がIMF管理体制に強く反発することが予想されるからである。
韓国経済は、1960年代に経済開発5ヵ年計画に基づき本格的な工業化を開始して以来これまで、いくたびか「危機」を経験してきた。1970年代の石油危機のときにも外国為替危機を経験して今回が初めてではないが、これまでは開発独裁的手法で何とか切り抜けてきたといえる。しかし、今回の危機は、韓国に投下されていた短期資金の急速な流出という国際金融面での外的要因と、財閥中心の産業発展並びに国内金融制度の脆弱性という国内経済構造上の歪みとが絡み合って生じた危機が、政府の経済政策・管理の失敗によって増幅されたという複合的な性格を持っている。そのため、今回の経済危機のある一面だけを捉えて経常収支危機説、失政説、国際金融資本の陰謀説などさまざまな原因説明がなされているが、実際にはこれらの要因が絡み合った構造的危機説とでも言うべきであり、さらにはポスト冷戦のアメリカの東アジア戦略が背景にあることも見逃すことはできない。しかもそれぞれの要因が従来の「危機」の構造分析の概念や手法だけでは捉えきれない新しい要素をはらんでいることが、今回の事態の深刻さを示すと同時に、正確な把握を一層困難にしてもいる。今回のアジア経済危機がIMF当局者によって「21世紀型危機」といわれる所以である。
いずれにしろ、韓国経済の再生のための構造調整が今後どのように進展するかを見るうえで最も基本になるのは労働者階級の動向である。国民的危機管理システムの一環として発足した労使政委員会が一旦合意をみたものの、民主労総代議員の多くが反発して執行部が総辞退するなどの動きは、労使政の合意の取り付けとその実現がいかに困難であるかを示しており、今後の展開に楽観は許されない。

(東日本人文社会科学研究会代表 法政大学講師)

 

〔科学技術部会研究報告〕
第15回 1998年3月14日(土) 15:00~17:00 OICセンター 会議室

情報化社会とコンピュータ
李 相 春

 

 近年、情報化社会がめざましく進展し、今や情報化は国境や企業の枠を超えて、世界中の国・地域、すべての企業に浸透しているだけでなく個人生活にも深く根ざしたものとなっている。このような状況で情報化社会と情報機器としてのコンピュータについて充分理解しておくこと、また情報化社会が現在だけでなく、近未来において人々にどのような変化をもたらすのかをできるだけ正確に把握して、その変化に対応することが現代を生きる人々にとって重要な課題となる。
ここでは情報化社会の技術的な側面ではなく、情報化社会がどのような形で人々の生活の中に浸透しつつあるのかを具体的に考察し、情報化や情報化社会に対する捉え方について考えてみたい。

情報化社会の進展状況
──指標から見た情報化進展度──
社会の情報化の進展状況を把握するために指標として産業の情報化、特に設備投資における情報化投資の割合に関して情報化白書に次のようなデータを見ることができる。
日本では85年から96年の11年間に設備投資における情報化投資の割合が8.5%から16.1%へ、ほぼ2倍に膨れ上がっており、金額的には4.4兆円から12.6兆円へとほぼ3倍になっている。米国では割合としては日本の2倍近い数字となっていて、この11年間の推移としては日本とほぼ同様の推移を示している。
一方、96年度のパソコン出荷台数は前年比33%増の690万台となっており、テレビの出荷台数に近づこうという勢いであった。
また、96年度はインターネット元年ともいわれ、爆発的にインターネットが普及した。96年10月に573万人だったインターネット利用者は97年夏には1000万人を超え、日本のインターネット利用者数は米国を抜き世界第2位となった。
これらの他にも社会の情報化の進展を示す指標として衛星通信や移動体通信の進展、衛星デジタル放送の世界的展開、CATVのデータ通信への利用など、まさに社会は情報化のまっただ中にあり、情報化を意識せずには企業活動だけでなく個人生活もままならない状況になりつつあるといえる。

先進諸国の情報化に関する取り組み
──工業社会から情報化社会へ──
もちろんこのような世界的規模での情報化進展の背景には先進諸国の情報化に対する取り組み、情報化政策が大きな役割を担っている。特に米国ではすでに80年代に、21世紀は情報立国として世界に覇を唱えることを目指して情報政策を国家の最重要政策として掲げており、具体的な施策として「情報ハイウェイ構想」に引き続き、93年にはNII(National Information Infrastructure)計画を、94年にはGII(Global Information Infrastructure)計画を相次いで発表している。
また、APECでAPII(アジア情報基盤)を提唱した金泳三大統領の下で、韓国でも95年からKII(韓国情報基盤)が展開され、昨年12月の韓国大統領選では候補者全員が経済不況の中でも「情報化が国家の未来を決定する核心要素であり、そのためには大動脈である超高速情報通信ネットワーク構築が大切だ」との共通認識を示したことは注目に値する。
日本では21世紀に向けた改革のキーワードとして、自由化、国際化、情報化がクローズアップされており、それらに関連する各種の政策が提案されている。特に情報化では郵政省・NTTが進める通信の自由化、通産省が中心となって産学協同プロジェクト形式で国際的取り組みを進めるEC(電子商取引)、長年の懸案である情報公開法成立への動きと情報化で推進する行政改革など、注目すべき政策や研究・開発プロジェクトが目白押しである。
このように先進各国は今、生き残りをかけて工業社会から情報化社会へと変化しようとしている。

情報メディアの多様化と情報洪水
──情報化社会を生き抜く──
先進各国の政策にも根ざしたこのような情報化のうねりは、人々を取り巻く身近な環境にも情報化の影響を大きく与えている。特にテレビや新聞などの既存マスメディアは、新しい情報サービスを提供するだけでなくデジタル化による多様化へと変化しつつあり、一方では携帯電話やPHS、CATVやインターネットなどの新しいデジタルメディア登場により、情報メディアそのものが多様化してきている。
テレビは98年中に300チャンネルの時代に突入しようとしており、2010年には衛星波だけでなく地上波を含む多くのチャンネルがデジタル方式で放映されると予想される。また、テレビ放送を利用した双方向通信であるデータ放送が開始されるなど、まさにメディアとしてのテレビが変化しつつあるといえる。
一方、すでにインターネットを通じて世界中の主要な新聞記事が瞬時に閲覧できるようになっており、新聞も情報メディアとしての形態を変化させつつある。
通信とコンピュータ技術が生かされた新しいデジタル情報メディアの誕生と、テレビや新聞などのような既存のメディアの変化により、人々の情報量は過去とは比較にならないくらい増加している。このような実態が社会の情報化の推進力となっていて、人々は多種多様な情報の中から自分の必要とする情報を取り出すことができる。
反面、情報量の多さは情報洪水として人々に混乱を招く元凶ともなり得る。古いものが新しいものへと変化するとき、新しいものは必ず古いものの正の遺産と負の遺産を合わせて引き継ぐように、新しい情報化社会もそれに対応できなければ人々に負の側面が重くのしかかり、必ずしもより良い社会とはなり得ない。情報化社会を生き抜くためには、社会の情報化に対する正しい認識と、必要に応じて情報を取捨選択する能力を育てることが大切である。

コンピュータの特性 ──汎用性の功罪──
コンピュータの特性は何と言ってもその汎用性にあるといえる。汎用性ゆえに「何でもできそうで何もできない」のである。
年賀状の印刷から始まって、ワープロ、表計算、データベース、インターネット、ゲーム、各種電子出版物(CD-ROM コンテンツ)の利用、業務システムの導入など、さらにプログラムを作成すればできないことがないようにさえ思える。確かにコンピュータを使えばこれらのことはできそうであるし、目的がはっきりしていればコンピュータは充分人々の要求に応えてくれる。ただし、あたりまえのことだが、コンピュータやプログラムを使うのは人であるということをしっかり認識しておく必要がある。
私たちのように非英語圏の文化を持つ人々にとってコンピュータのキーボード操作は決してたやすいものとはいえない。いくらOSのGUI化が進んだといっても、まだまだマウスだけではコンピュータ操作できないのが実態であり、これがコンピュータ入門の(もっと言えば情報化の)カベとなって立ちはだかっている。
また、パソコンの爆発的な普及に便乗して、「箱からポンと出せば簡単に使える」と宣伝しているベンダーもあるようだが、果たしてそうだろうか。外来語や略語・専門用語の多さ、機器に関する基本概念、分厚いマニュアルなどキーボード以外にも人々の前に立ちはだかるカベは多くある。GUIを搭載できるような高性能なパソコンが安価になっただけで「パソコンが簡単に使えるようになった」とは私にはとても思えないのである。
このように考えると、情報機器としてコンピュータを利用するということはコンピュータを利用する能力を人々がつけていくということに他ならないということが言える。結局、社会の情報化は人々の情報化に他ならないということではないだろうか。

(大阪情報コンピュータ専門学校助教授)


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『第5回朝鮮学国際学術討論会論文集』の編集作業に携わって
裵 龍

 

 昨年8月に開かれた『第5回朝鮮学国際学術討論会論文集』の編集作業に携わっています。数多くの優秀な論文を読む機会に恵まれ、また幾多の友人、先生方の助けを受けながらの作業は有意義かつ楽しいものでした。正直なところ、多くの難問にもぶつかり、また「だめなんじゃないか」と思うこともありました。何せほとんどの実務スタッフは私も含めて素人、もしくは「それに産毛が生えた程度」の若い人たちでした。私に産毛が生えているかどうかはさておき、しかしながらその若いスタッフの情熱とかなりの頻度で出てくる、時に斬新、時に奇妙なそのアイデアが、今回の『論文集』完成に大きく寄与したことは間違いありません。
今回の編集過程においていちばん苦労したのは、何といってもハングルの「ティオスギ/ティヨスギ」(スペースの使い方)でした。個人差があり、また辞書によってもさまざまな使い方があるので、スペース一つに何十分と時間をかけたこともありました。そんなこんなで頭を抱えている時にどこかから聞こえてくる「そんなんどうでもよろしいやん!」という一言に何度救われたことか分かりません。関西弁の威力を感じた瞬間でした。
今回の『論文集』は全4冊、5つのシンポジウムで発表されたものもふくめて185本の発表論文の内72本が収録されています。執筆者は日本、韓国、中国、米国、アルゼンチン、ロシア、ドイツ、イギリスの8ヵ国となっており、分野も歴史、社会、文学、環境・医療と多岐にわたっています。そのすべてが朝鮮学、すなわちコリアに関連した研究であることを考えると、『論文集』は近年めざましい朝鮮学の発展と将来への可能性を映し出している、と考えられます。
新たな取り組み、数々の失敗、先達からの叱咤激励、いくつかの困難を乗り越え、またいくつかの挫折を経ながら着実に発展してきた「朝鮮学国際学術討論会」。世界の職業的コリアニストのみならず市井の研究者たちにも門戸を拡げ、その底辺の拡大と底上げを図ることで朝鮮学全体の発展を願ってきました。その討論会の『論文集』の編集に携われたことに誇りを感じます。忌憚のないご意見をお待ちしております。
『第5回朝鮮学国際学術討論会論文集』は6月末発刊予定です。

(ロンドン大学大学院 国際高麗学会本部事務局員)


編 集 後 記
各分野でご活躍の先生方のご協力により、研究会や講演会も順調に行われ、このたび、日本支部通信第9号を発刊することになりました。
研究会や講演会に参加し、先生方の活発な討論を拝聴させていただきながら、日本支部での、仕事に携われることを喜んでいます。
現在、事務局では、この秋に開催される第3回学術大会の準備を進めております。多くの先生方のご協力により立派な大会にしたいと考えております。お近くにお越しの節は、事務所にお気軽にお立ち寄りください。  (金文子)